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【日本史】史実の真田丸と真田幸村の評価が低すぎて泣ける・・・大坂夏の陣について話をしようか(関連まとめ) | 帰ってきたブログマンBTT

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タグ: 日本史  真田丸  真田幸村  大坂の陣  戦国時代  
2016年01月24日 14:47

コメント数: 9コメ
カテゴリ:
【日本史】史実の真田丸と真田幸村の評価が低すぎて泣ける・・・大坂夏の陣について話をしようか(関連まとめ)

真田幸村に関するコメント

真田幸村という武将は真田家存続の為に人生の大半を人質として過ごした。その後は蟄居…。武士は戦いの中で生きてこそ─。父・昌幸や祖父・幸隆は百戦錬磨の知将。真田武士には華があった。だが、幸村にはその「華」がなかった。幸村は大坂の地を踏みしめ、「華のある武士の生き様をここに示す!」と呟いたのかもしれない。大坂夏の陣は幸村が武士らしく散れる最期の「チャンス」だったのだから…。その熱い思いが形となり「日本一の兵」として後世に伝わったのではないのかな。熱くなる時に熱くならずいつ熱くなるというのか─。日本男児はサムライの子、悔い無き戦いをせよ。 By 帰ってきたブログマン

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実際の真田丸と真田幸村の評価



大坂の陣の補足

大坂の陣:Wikipedia

大坂の陣(おおさかのじん)は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)の総称。江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。大坂の役(おおさかのえき)とも称する。(出典:Wikipedia



1:ななしさん:2016/01/22(金) 04:21:27.62 ID:spGHYTTQM.net

幸村は豊臣からまったく信頼されていなかった
幸村は大阪城の守りで一番堅い箇所を任される。城の中には入れてもらえず仕方なく塀の外に真田丸を作る
徳川もそこからはまともに攻めてこない
そして豊臣方も幸村を監視できて裏切ったら即攻撃できる場所


( *`ω´) <真田本体(兄・信之)が徳川サイドにいたので、信用がまるでなかったらしいですね。豊臣サイドは、「あの野郎、「真田丸」なんて出城を造りやがって…裏切る気満々なんじゃねぇの?」なーんて思われていたようです。砦も後藤基次らの賛同がなければ許可されなかったようです。また、百戦錬磨の勇将みたいな描かれ方をされますが、実戦の経験は皆無に等しく、父・昌幸や祖父・幸隆のような活躍ができたのか、少々疑問に感じてしまいますね。


2:ななしさん:2016/01/22(金) 04:23:05.87 ID:97w4MqUS0.net

うせだろ?





3:ななしさん:2016/01/22(金) 04:23:43.95 ID:Z/ytWDbs0.net

夏の陣では幸村なんかより勝永のが大活躍やったんにな
知名度低すぎて泣ける

8:ななしさん:2016/01/22(金) 04:25:38.52 ID:8h3NsWaUd.net

>>3
くわしく


毛利勝永の補足

毛利勝永(もうりかつなが):ピクシブ百科事典

毛利勝永は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した戦国武将。突出した戦闘指揮能力で知る人にはよく知られる。

後、慶長十九年(西暦1614年)、大阪の役では豊臣秀頼よりの招きを受け、西軍にありながら東軍所属である山内一豊の妻、千代を厚遇した事によりその縁で篤く持てなされていた土佐から勝永が脱走し(父の毛利勝信は西暦1611年に死去)、大坂城に入城。真田信繁、後藤基次らとともに大坂牢人五人衆となる。

翌日の五月七日、天王寺・岡山の戦いでは天王寺口の戦いに参戦。徳川勢を次から次へと壊滅し、遂に家康本陣を脅かし家康を数里に亘って追い回す。(勝永の超人的な活躍の詳細は、出典元の記事をご覧下さい。)(出典:ピクシブ百科事典

4:ななしさん:2016/01/22(金) 04:24:03.29 ID:zEAPjO6Fa.net

信頼なかったのはガチだろ


( *`ω´) <幸村の実家が敵側だからねぇ…。しゃーない。

5:ななしさん:2016/01/22(金) 04:24:40.99 ID:UKVTGYzgd.net

兄貴が徳川についた裏切り者やし真田の功名はだいたい昌幸が築いたもんやから

11:ななしさん:2016/01/22(金) 04:27:24.16 ID:0WT85kvc0.net

>>5
これ
幸村とか夏の陣でほんの僅か記述があるぐらいでそれ以外はなんもしてないのに十勇士のせいで過剰評価されとる

12:ななしさん:2016/01/22(金) 04:28:41.65 ID:BSJBY0ar0.net

そら十勇士も創作やし無双やBASARAで幸村や伊達がかっこよく思うのと同じやで


( *`ω´) <伊達政宗は意地っ張りで傾奇者で伊達者だったので華があったのは事実ですけどね。

14:ななしさん:2016/01/22(金) 04:28:57.90 ID:Z/ytWDbs0.net

1615年、大坂夏の陣では、5月6日、道明寺の戦いで敗退した後藤又兵衛(後藤基次)らの敗残兵を収容して、大坂城に撤収。
 5月7日の天王寺口の戦いでは、兵4000を率いて徳川家康の本陣正面である四天王寺南門前に布陣した。
 毛利勝永の物見が本多忠朝を発見し、先走って銃撃したため、戦闘が始まったが、すぐに本多忠朝や小笠原秀政ら討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純らの徳川勢を混乱させて撃破・突破し、 徳川家康の本陣に突入するという大活躍を見せている。
 こうして徳川家康の本陣を恐慌状態に陥り後退させたが、真田信繁(真田幸村)隊が壊滅し戦線が崩壊すると、桶狭間の戦いの再来はならず、四方から攻撃を受けることになり撤退した。
 退却戦でも毛利勝永の指揮は素晴らしく、反撃に転じた藤堂高虎を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで、大阪城へと見事退却した。


( *`ω´) <毛利勝永と毛利勝信【大阪の陣で義を果たした名将】「詳細:戦国武将列伝β

18:ななしさん:2016/01/22(金) 04:31:34.77 ID:8h3NsWaUd.net

>>14
ファッ!?
強すぎだろ

15:ななしさん:2016/01/22(金) 04:29:21.73 ID:MRClVmPK0.net

真田家の功績は幸隆、昌幸、信之>>>幸村ぐらいの差がある

21:ななしさん:2016/01/22(金) 04:33:37.10 ID:ZWuvF7Np0.net

>>15
そら実際何もやってないしな

16:ななしさん:2016/01/22(金) 04:29:23.51 ID:3mRrtfWr0.net

んじゃ島津が褒めてるのはなんなん?

17:ななしさん:2016/01/22(金) 04:30:33.56 ID:spGHYTTQM.net



これみて幸村が信用されているかどうか?
真田丸が必要かどうか?

専門家からみたら真田丸なんて必要ない

23:ななしさん:2016/01/22(金) 04:34:21.37 ID:sFodHEuJ0.net

>>17
そんな捨て駒ポジションで
殺しまくったから褒められたんちゃうの

22:ななしさん:2016/01/22(金) 04:33:44.49 ID:asyiOX7a0.net

藤堂隊っていつも壊滅してんな

25:ななしさん:2016/01/22(金) 04:36:53.52 ID:UiaMdH5W0.net

豊臣方の武将がへぼすぎて泣ける

27:ななしさん:2016/01/22(金) 04:37:58.05 ID:64x2I0Ak0.net

正直この手の話って過大評価から転じての過小評価に思えてしまう
歴史ってやたら逆張りが目立つし




( *`ω´) <大坂の陣で「信繁」を名乗らなかったのは、信繁(典厩)の名に泥を塗らないためだったのかなぁ…。

ネタ元: 実際の真田丸と真田幸村の評価
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1453404087/
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関ヶ原じゃ登場しないし、大阪の陣単独のぽっと出だから評価のしようがない。
長曽我部なんかも大阪の陣じゃ活躍したんじゃないかと言われてるし。
配置図見たら良く分かると思うが、真田丸って徳川本陣から分かりやすい位置にあるんだよ。
小早川のような裏切り者が出る負けフラグの戦で、豊臣への忠義を通して最前線で奮戦した幸村の死に様は家康にインパクトを残したハズだよ。

いわゆる判官びいきってヤツだね。
真田十勇士とか徳川の時代以降、幸村がヨイショされたのはそのセイだろう。
北側に陣取って奮戦してたら今みたいに持ち上げられてないと思う。
いやいや毛利への褒め方は幼稚。通信機があるわけもなく、そうパッパと手際よく指図できるわけない。間違いなく現場の判断、戦を始める前から準備していた事をやっただけだろ。それから数に勝る相手への突撃は自殺行為であり、真田の取る戦術ではない。だから小説でも感傷的に書かれているケースが多い
※4
信頼無かったのは真田だけじゃない。名のある武将も馳せ参じたわけだが、彼らの意見が取り入れられることはない。一方で堀埋めなど、よく分からない妥協案が採用されたり、豊臣側の指揮は混迷を極める。それらをもって、普通にやってれば勝つとまでは言わないが、結末が変わってたんじゃないかって印象はある。
結局のところ劣勢を覆したわけではなくて、奮戦しただからね、
戦略的にも戦術的にも勝利は出来てないから、そこまで高い評価はできない。
大阪城に来た時には部隊を引き連れてじゃ無いからねぇ
むしろ信繁に何の義理も縁もない将兵率いて頑張った方だよ
NHKの奴じゃ、真田丸には籠城(攻城)用の巨大鉄砲があったから
それで有利に戦えたってのがあったな。

攻め手は射程外から、堀を進めて責めたとか。

まるで第一次世界大戦の塹壕戦みたいだった。
豊臣方の武将がヘボすぎるのはしゃーない。何せ、もうほぼ勝ち目のない戦いで「一花咲かせたろ」と思って来た人達だからね……
成功した連中、生き残った連中は徳川につくよ
あの布陣図を見て真田丸の意味が無いと言えるのはどんだけ素人なんだよ
なんで近世になるほど五稜郭のような城の形になったと思ってんだ
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